2011/07/26

被災地での活動支援そのⅠ

2011年6月17日(金) 
19時までの仕事を終えて23時40分東京駅発高速バスに乗り込み仙台へ(ドキドキ)
$舞台公演「共に生きる」


翌日8時半からの打ち合わせ前  
私の右隣の女性は、高尾からの初参加者で幼稚園の先生、その右隣の女性は関西から。男性は、かなり長い滞在でワークに参加されたベテラン。
$舞台公演「共に生きる」


支援センター隣の教会前から自転車で被災者宅へ移動です。(再びドッキドキ)
さぁ、片道14キロに挑戦!10分ほど走ると何事も無かったような仙台市内から一変、陥没した道路、戦場のような光景が延々と続きます。
$舞台公演「共に生きる」


一日の作業を終えてセンターに戻ってから「ただいまー」
$舞台公演「共に生きる」


この日の中心の作業は、ヘドロ撤去&ビニルハウスの解体・組み立て。
戻ってから、バレエストレッチで酷使した身体をほぐし心もリラックス~♪

「作業写真は、被災者の気持ちを察して撮らないこと」というセンターからの注意がありましたので現場の写真はありません。
でも、「エマオ」で検索していただくとブログには写真がありますので、そちらをご覧下さい。
被災地に行ってナマで見るのが一番解かりますので、活動の参加は出来ないという方は是非、状況を見に行くだけでも!!

今回バスの手配は、藤枝直城さんが引き受けてくださり助かりました。

リポートは目黒恵子でした

2011年6月11日(土) 「反原発集会・デモ行進」に参加しました

東京港区芝公園集合での決起集会後に7キロ行進(4000人以上)
東京駅前に丁度、大勢の修学旅行の中学生が!
われら行進者は一斉に「あなたたちを守るために歩いてるんですー!!」と
彼らの目を見ながら叫ぶと、手を振って応えてくれたり、引率の先生が
こちらに向けて写真を撮ったり・・・

3月11日の東日本大震災では、天災の津波・人災の原発事故が発生。
原発の事故に思うことは多くあります。
震災後4ヵ月半過ぎた今も尚、右往左往している日本の政府、
政府(国)を動かすことができる国民の多くが未だに無関心で声を挙げない為に
状況が変わらない!
責任は我々にもあるということを痛感する日々です。
「あの時何もしなかった・・と後悔したくないから行動しています」とある人が言ってました

舞台公演「共に生きる」 舞台公演「共に生きる」


見よ!!「脱原発!」のはちまきをした猫のこのコワい顔を
(この猫さまも歩き通しました、スゴイ! 銀座をフラフラ歩いてる人間よりずっとマシです)

沖縄の基地問題も含めて、
今の状況に2年前の「共に生きる 公演」~未来からの伝言~が重なります。

護憲おばさんのセリフ
「軍隊が国民を守ってくれないとこ見ちゃったのよ!
わたし、満州にいたのよ、今の中国の東北部だわ。
1932年から日本が占領して、満州国ってのをつくってたの。
それがさ、1945年に日本が太平洋戦争に負けたでしょ、
そしたら、日本の軍隊が関東軍っていうんだけどね、
それが真っ先に逃げ出しちゃったのよ、ソ連が攻め込んでくるってんで。
満州の日本人置き去りだったのよ」


この場をお借りして、護憲おばさんを演じてくださった宮川清子さんは今年4月に亡くなりました。
きっと、天国でも「憲法改悪はんた~い!」と活動していらっしゃるのでしょうね、とは20代の共演者の言葉です。

目黒恵子

2011/07/05

いわきでのボランティア

5月28日(土)物資配布と昼食提供のボランティアを行って参りました。
小雨が降ったりやんだりを繰り返す天気でした。

当初、公園にて行う予定でしたが、雨の為、カトリックいわき教会に、場所を提供頂きました。

12時配布開始というなか、並んで待つ方々も多くいらっしゃいました。
オムツ一つをあげても、サイズや型の問題といろいろあり、ニーズは多様化していると実感しました。
津波の被害は無い地域でしたが、風評被害にあっている方もいらしたようです。


私は教団の須賀川シオンの丘に前泊いたしました。
地震の影響により、宿泊棟が少し傾いていました。玄関がきちんとしまらなくなってしまったり、
押入れの開閉が苦労するという状況でした。
郡山に近い為、いわき市よりも放射線量が少し高く、教会員のご近所の方が孫を連れて
引越してしまった。我々はどうしようか? と話をする と話してくださったご婦人がいらっしゃいました。
貴重な体験をして来れたこと感謝です。

夏にも青年向けのキャンプが計画されているようなので、参加可能であればまた、伺いたいと考えています。


矢吹 愛美

舞台公演「共に生きる」

舞台公演「共に生きる」